- 気学 - 命運の星 - 五行説、陰陽五行説 - 方位学 - 吉方位の活用  - 暦の話 - 運命と宿命 -



気学

私達が扱う「気学」とはどんな学問か? 

人間が母親の胎内からこの世界に産み出された、その時を一つの基準として死に至るまでの人生をいかに幸福で、自分の求める望みを貫き、築く為にはどうしたら良いかということを具体的に指導しようとする学問です。

 本来、人間は大気の中の一分子であり、いうなら大気の子です。常に大気に左右され、人生の幸も不幸も大気の動きに従って起こる、一つの現象なのです。
 もし人間にその大気の動きを事前に知る能力があったら、不幸を避け幸福を十分に受け入れることが出来ない筈はありません。
 たとえば、現在では台風の進路や風の方向、力の大きさまで事前にキャッチし、適切な手段を取って災害をある程度避けることが出来るように、この学問を極めることによって、人生の災厄を逃れ幸福を得ることが出来るのです。
 
 しかし、科学を過信し目に見えないモノを信じようとしない人も多いのが現状です。ある有名な科学者が「科学を信じ過ぎるということは、迷信に等しい」と言い、アインシュタインは「科学を極めつくしてゆくと、科学では計り知れない世界がまだその上にある」と言っています。

 科学で何もかも片づけようとする心理こそ、間違いであることを知るべきでしょう。
 科学が人生に様々な利益をもたらしていることは認めますが、科学の発達が人生に多くの不幸をもたらしていることも、反面認めないわけにはいきません。世界の平和と幸福を目的に研究された原子力が、広島や長崎でどんな惨事を引き起こしたか・・・日本人なら、よく知っているはずです。しかも研究が進歩するにつれ、人間は安閑とした平和を送ることの出来ない、不幸なものになってしまいました。勿論、科学が全てそうだとは言えませんが、科学が人間を幸福にするという考えは、間違いだと言わなければならないでしょう。人間には科学より頼るに足る学問もあるということを知るべきです。それが「運命学」と呼ばれるものです。
 
 この世の中で大切なものは、自分自身を知るのに必要な学問です。自分自身を知ることが出来なければ、成功も栄誉も幸福も掴むことは不可能です。また、一人一人幸せを得ることが、全体をも幸福に導くことが出来るからです。

 さて、それでは改めて「運命学=気学」とは、どんな仕組みの学問か? 
いかなる星の元に生まれたか・・・よく言われる言葉です。人間はいかなる星の元に生まれたかによって、その人の一生が決まるということも、あながち否定出来ないでしょう。幸運な星の元に生まれた人は、その生まれを感謝するでしょうし、悪い星の元に生まれた人は、その生まれを嘆き、何とか良い星に巡り会うよう求めるでしょう。
 このように大空の星と人間との関わり合いが、ヨーロッパでは西洋占星術、中国では九星術(気学の元となったもの)となりました。
 我々の祖先は季節の変わり目を正確に知ろうと努力しました。その現れが「暦」です。四季の移り変わりで雨期や台風を予測したり、その方角を知ることで気学を「方位学」とも言います。

 気学の「気」について考えてみると、辞書では気力、気勢、和気、勇気、天気、元気、気構え、気合い、気運、大気・・・などの言葉が並んでいます。
「気」とは、すべての万物の本質であり、その本質である気の運動が世のあらゆる森羅万象を創り出し、人間がこの世に生を受け初めて大気に触れた時、その気と生まれた星とを基本として、人事一切の事柄を明らかにする学問といえるのです。

このページの先頭へ



命運の星

 九星気学では一白・二黒・三碧・四緑・五黄・六白・七赤・八白・九紫の、
九つの星を生まれ年、生まれ月に配して、それをその人の命運の星といいます。言い換えると八十一の類型に分け、種々の判断を行います。

 毎年、毎月、毎日毎に星が入れ替わり、10年、10ヶ月、10日目に再び元の星に帰るのです。この学問のバックボーンとなるものは、陰陽という考え方と、木・火・土・金・水という五行説であり、この両者は東洋古来の哲学思想の背景をなすものであることは、関心を持つ人なら誰でも知るところでしょう。この世の中に昼があり、夜があり、太陽があり月があり、男があり、女があるように陰陽を否定することは出来ません。

このページの先頭へ



五行説、陰陽五行説

 ◇五行説

 九星には、一白水星とか二黒土星とか、木・火・土・金・水の五つの星が記入されています。これを五行と言い、この五行説が生まれたのは、西暦前約400年、中国の戦国時代の頃であると言われています。
 古代の中国人が天体を観測するようになった時、太陽と月の他に太陽系の惑星(水・火・木・金・土)が、お互いの位置を崩さずに、動かない恒星の中を運行するのを知り、この五惑星がこの世のあらゆる出来事の運命を司るものと考えました。
 そして、彼らが当時生活していく上に必要な素材(みず「水」・ひ「火」・き「木」・かね「金」・つち「土」)にちなんで、以上の惑星に名を付ける一方、この世の事象すべてを五つのグループに分類しました。
 五行の木とは、動植物のように生命を持ち活動しているもの、火とはものの燃えつつある状態、土とは大地であり、金とは金属を示し、水とは液体状のものをいいます。
 これを色々な事柄にあてていくと、易学の陰陽観における生と死というような対照的な二面観を説くのに対して、五行では、生(せい)旺(おう)休(きゅう)収(しゅう)死(し)の五段階としてみるものです。
 すなわち、木を以て生とし、水を以て旺とし、金を以て収とし、水を以て死にあて、更に止まって動くことのない大地を休にあてています。

◇陰陽五行説

 東洋独特の思想とも理論ともいえるのですが、これを形成している「陰陽説」と「五行説」は、元もと別々に起こったものです。両説ともその起源はかなり古い物ですが、お互い密接な関係を保って発達し、漢の時代になって一つのものとなり、中国の易や他の占術の原理になったばかりでなく、あらゆる思想や哲学にも強い影響を与えるようになったのです。
 陰陽説は、この世の森羅万象を、ちょうど女性と男性のように陰と陽に分け、
その陰と陽とのバランスが取れているか、否かによって、あらゆる現象の生成や変化を解明するものですが、易に取り入れられ、その原理となりました。

このページの先頭へ



方位学

 よく吉方位とか、凶方位とか耳にすることもあると思いますが、まず、方位を取るとは? その方角の「気」を受けるということです。
 では気とは? 目には見えないが、そこを満たしているエネルギーとでも
言っておきましょう。
 北の方角に行けば北の気を受け、南に行けば南の気を受けます。
その結果、そこに満ちている陰気・陽気の気の影響によって、気が滅入ったり、
逆に晴れたり、心の変化が生じるわけです。その心の変化は、やがて顔に表れ、また自分の運命に大きく影響して来ます。
 方位学では吉方祐気(良い方位と自然の助け)を用いることで、宿命的な運命の呪縛から抜け、新しい運命を創造することが出来ます。いわば開運学ともいえます。
 自己のあるところ、すべて回りに方位が存在します。古人もこの方位学を上手に使用してきました。神武天皇が遠征の際、賊のために非常な苦労をした話は有名ですが、最後に八咫の鏡によって道を変え、賊の征伐に成功しました。すなわち方位を使用したわけです。当時の八咫の鏡は八方位の吉凶を記した方位盤と伝えられています。
 このように吉方位と凶方位では、おのずと受ける作用が大きく違います。凶方位には六大凶殺(五黄殺、暗剣殺、本命殺、本命的殺、月破、日破)という、怖い6つの方位があり、凶方位に行くということは、その怖い方位のワザワイ、方災を受けることになるわけです。受けた方災は10年間付きまとい、どんなに運気の流れが良い方行に転じようと、すべて邪魔をしてくるのです。
 方角によって、それぞれ象意(起こる現象とでも言いますか)というものもあり、受ける作用も異なります。北を犯せば北の悪作用、南を犯せば南の悪作用、それに五黄殺や暗剣殺が重なったら、もう絶命に近い・・・。
 逆に吉方位を取っていくことは、神武天皇のように、良い作用を起こしてくれるのです。病気で苦しむ人は、その病気に良い作用をもたらす吉方位に行けば良いのです。
 仕事やお金に苦しむ人は、その作用をもたらす吉方位に行けば良いのです。
 こうして私が話している事が、少しでも皆さんのお役に立てたなら幸いです。「合掌」

このページの先頭へ



吉方位の活用

 人間は誰しも幸福になりたいという欲望を持っています。仏教の世界では人間、百八つの煩悩を待っていると言われます。
 ですから除夜の鐘も、その煩悩を祓うべく、百八回突くわけです。
 幸福の欲望も人によって異なりますよね。どんなお金持ちでも病弱なら、その幸福を健康に求め、また健康でも貧困に苦しんでいたら、その幸福をお金に求めるでしょう。
 子供に求める人、名誉に求める人、学問に求める人、と欲望は千差万別といえます。
 このあらゆる欲望を無理のないかたちで、その人に満足させるのが
方位学の活用なのです。
 古来から伝わる言葉に「吉凶悔吝(かいりん)動より生ず、吉凶とは得失なり、以て君子は進退を重んずる」とあります。
 これは、人間社会のあらゆる吉(良い事)、凶(悪い事)は、動くという結果から生じるという意味です。人間は移動することによって、どのような変化を生ずるか、運勢の思わしくない人が吉方位に移れば良くなり、運勢の良い人でも凶方位に移れば、段々と悪くなります。人間の開運成功は「方位」を、いかに上手に活用するかによって、運勢を変化させることが出来るワケです。

このページの先頭へ



暦の話

 易学では節分(2月4日)を境に、新しい一年が始まります。
 皆さんも「暦」なるモノを一度は目にしていると思います。
 暮れから本屋さんに沢山並んでいる冊子です。
 
 その暦の歴史について少し触れてみます。
 日本書紀によると西暦553年、当時の先進国であった百済から医学、易学、暦学の学者を招へいしたとあり、日本で最初に暦が使われたのは、持統天皇の時代(西暦692年)の元嘉歴でした。
 当時の日本は中国の隋・唐から技術、学問、制度などを学ぶため、遣隋使、遣唐使を派遣していました。
 その中の一人、吉備真備(キビノマキビ)が帰国した際、その頃の中国で使われていた大衍歴(だいえんれき)という暦の指導書や、測影鉄尺(そくえいかねしゃく)という、太陽の影の長さを測定する棒を持参しています。
 平安時代になると、西暦927年(醍醐天皇の時代)に、延喜式という天皇の勅命で編集した法令集があり、この延喜式の中に天文、時刻、気象、暦学、占いなどに関する全てを扱う「陰陽寮」という、役所の規定がありました。
 この陰陽寮には占いの専門家として、陰陽師(六名)・陰陽師を教える陰陽博士(一名)現代の塾生とも言える陰陽生(十名)・暦を作ったり暦学をえる暦学博士(一名)暦学の学生(十名)・天文学を教える天文博士(一名)・天文生(十名)水時計によって時刻を司る漏刻博士(二名)その指揮下にある守辰丁(時を知らせる係り、二十名)などが居ました。
 そしてこれらの暦学博士達が翌年の暦を作り、ときの天皇に奏呈し、天下に布告したのです。
 日本では暦は朝廷のもので、十干十二支と中国より伝わった漢学で作られており、慣行や、しきたりなどの日程・行事が綴ってありましたが、一般民衆には理解し難いものでした。
 当時、賀茂家が暦学を、安倍家が天文学を世襲で担当していましたが、その後、土御門家が暦学を受け持ち、明治の改暦まで続きました。
 明治五年十一月九日、太政官布告が発表され、その年の十二月三日を
明治六年一月一日とし、旧暦(太陰太陽暦)から現在の新暦(太陽暦)に切り替わりました。
 では、何故突然切り替わったか? というと、明治維新によって開国となり、
欧米と貿易を始めるにあたり、それまでの旧暦では外国と日が合わないために
起こる、手続き上の摩擦を避けるためでした。

 暦のことを「日読み(かよみ)」あるいは「細読(こよみ)」ともいいますが、言葉の示すとおり、日を読む、細かく読むことが暦の語源といわれています。
 暦の基準を決めるのに月の満ち欠けを用いるものと、太陽の周期を用いるものとがあり、太古の時代は月の満ち欠けを基準とした暦(太陰暦)が多く、月が満月になり、やがて欠けだし、さらに全く欠けて新月となり、そしてまた少しずつ顔を出し始めて、再び満月に戻ります。
 このことを朔望月(さくぼうづき)といい、一朔望月に要する日数は二九、五日掛かります。一年を十二ヵ月とした場合、十二倍で三五四日となり、一太陽年三六五日より約十一日短くなり、三年間でなんと一ヵ月程度のズレが生じることになります。
 こんなにズレがあっては、暦の役に立ちません。
 そこで、そのズレをなくすために、太陰太陽暦が考え出されたわけです。
 私達が一般に旧暦といっているものは、この太陰太陽暦のことで、単に月の満ち欠けを基準にしたものでなく、それに太陽年、つまり季節の循環を取り入れたものです。
 カレンダーを見ると「立春」とか「雨水」とか、書かれているのを目にしますが、これは二十四節気と呼ばれ、太陰太陽暦にとって、季節の移り変わりを正確に示すポイントとして、大変重要なものでした。
 太陰太陽暦は、一太陽年と十一日の差を埋めるため、十九年間に七回の「うるう月」を入れるというものですが、このため暦のうえで、月日が季節に対して一ヵ月程度、前後にずれる場合が出てきました。
 そこで暦に季節の移り変わりを示す基準点として、二十四節季が置かれたのです。二十四節季は太陽年の長さをもとに決められ、月のめぐりとは無関係です。
 二十四節気のうち立春、啓蟄、清明、立夏を「生節」。
 雨水、春分、穀雨、小満を「中気」といいます。この正節を基準として節入りといい、この日をもって月が変わることを示します。
 易学で一年が二月三日を境に変わるのと同じように、月の始まりも一日ではないということです。
 

このページの先頭へ



運命と宿命

 この科学万能の時代、私達の周囲には科学でも解明出来ない事が、たくさんあります。
 また大宇宙を人工衛星やスペースシャトルが飛び交い、コンピューターが無限に近い数値を、瞬時に割り出す現代なのに、私達は自分の明日の命さえも判らないのです。
 例えば今まで歩いて来た一本の道が左右に分かれたとして、私達は右に行くべきか? 左に行くべきか? それを選択するのに、何ら迷わない人がどれだけいるでしょうか。そして、その選んだ結果はどうなるでしょう・・・。
 右に行ったら、たまたま車が故障して困っていた女性がいて、それを助けたのが縁で、幸せな結婚をするかもしれません。
 一方、左に行った結果、突然脇道から飛び出して来た車と衝突して、命を落とすかもしれません。
 今までの人生を振り返ってみても、こんなチョットした選択の違いで左右された分岐点って、ミンナあったと思います。
 勿論、何も好きこのんで災難への道を選ぶ人は皆無でしょう。
 もし事前に左折したら事故に遭う、と判っていたら誰でも右に曲がります。
つまりは右に曲がるか、左に曲がるかを事前にキャッチするのが「運命学」なのです。
 古代中国の賢者達は、その英知を傾け人の運命を事前にキャッチする法則を探しました。
 現代に伝わる「気学」をはじめ「易学」「四柱推命学」といった占術は、すべてその集大成として出来たものです。
 ところが、それらの占術は大半が「宿命鑑定法」に終始していた、きらいがあります。
 つまり吉凶禍福(幸運・災難)に巡り会うのは、その人の宿命であると主張するものです。

「人の力ではどうにもならない運命だから」とか
「決められた宿命だから仕方ない」とか

 人に諦めを強制するものであったようです。しかし、それでは占う意味も必要もなくなってしまいます。占わない方が、まだマシということになるでしょう。
 人に決められた宿命があることは確かですが、宿命に流される人生などマッピラ、生きる甲斐がないというものです。決められた宿命があるなら、それを打ち破り凶運を吉運に変えれば良いのです。
 
アメリカの小説家、O・ヘンリーの作品の中に「三つの道」という、人間の宿命について説いた面白い作品があります。
 ある一人の若者が志を立て都会に出て来る途中、道が三つに分かれている場所に差し掛かりました。
さて、どの道に行ったら良いのか? 迷った彼は手にしていた杖を立てて手を放し、杖が倒れた方角に行こうと考えました。
すると一番右の方向に杖が倒れ、若者は一番右の道を選び進んで行きます。
その後彼は色々な出来事に出会い、政治家を志ます。
十数年の後、新進の政治家として知られた彼が辿った最期は、とどのつまり、自分の書斎で妻に射殺されて一生を終えるのです。
と、そこで又、物語は振り出しに戻ります。
 三つの分かれ道に差し掛かった若者が、手にしていた杖を放し倒れた方角に行こうと考えます。
杖は真ん中の道を指し、彼は真っ直ぐに進んで行きます。
真ん中の道を進んで行った彼は芸術家を志します。
十数年の後、新進の芸術家として知られるようになった彼の最期は、自分の書斎で妻に射殺されます。
と、そこで又、物語は振り出しに戻り、三つの道のどの道に行こうか迷った若者が、路上に杖を立て、倒れた方角に行こうと考えます。
杖は一番左の道を指しました。
左の道を歩んだ彼は、十数年の後、事業に成功して著名な実業家となります。
彼の辿った最期も、やはり自分の書斎で妻に射殺されてしまいます。
 ザッとこんな物語ですが、人の一生はヒトツの定められた路線にあることを表現したものです。
人間には天から授かった宿命があり、これは動かし難いものである・・・と、考えるのが「宿命論」です。しかし人間には運命があります。
 天から授かった固定した宿った命に対して巡る、動く命といいますか、どんなに良い宿命の人でも、運命次第では折角の吉兆が壊れますし、どうにもならない宿命の人でも、良い運命が来れば開運し発展もします。
 君子と呼ばれるほどの人は、自らの宿命を知って、短所・長所を明らかにし、
欠点が少しでも出ないように、修養に励みました。
巡り来る運命が判っていれば、それに備えればよいのです。
簡単な話、朝起きた時どんな上天気でも、午後から雨になると判っていたら、傘を持って出掛けるでしょう。
運命を教える運命周期は、その天気予報みたいなものです。
 運命鑑定は無限な活用が可能ですから、己の宿命に諦めて流され必要はないのです。

このページの先頭へ


 
 

HOME